でも、引いただけで、そのまま放置されていました。
せっかく、そのときに何かを感じて引いた蛍光ライン・・・
そんな蛍光ラインたちをときどき、ここに書き写して行く事にしました。
48. 『ドイツ・ユダヤ精神史』p242 山下肇
ユダヤ教の世界陰謀と、ユダヤ教のフリーメイソン団との結託という説を生み出したこの文書は、その影響力をロシアではなくて英独の翻訳において発揮した。それはイギリスの保守的新聞と、アメリカではヘンリー・フォードによってまともに受け止められたが、世界大戦後のドイツではじめて、人種説を支柱とするその禍い多き意味をかちえたのであった。
陰謀、謀略は、現実に行われている。アラブの春、リビア、シリア、ウクライナ。西側(日本も含む)の大手マスコミが流している内容は、事実とはほど遠いというのが現実だろう。国境を越えて、強欲に富を吸い上げることに捕らわれた残念な人々で構成される巨大資本が影で西側の政府を操り、このどうしようもない世界を作っている。
しかし、国境なき巨大資本家たちをユダ金と決めつけてしまうのは、負の歴史の繰り返しだろう。日本での市井の人の発言を聞いたり、文章を読むと、最近、黒幕はユダ金という決めつけが横行している。遅れてきた反ユダヤ主義にならなければいいのだが・・・・
47. 『日本の思想』p129 丸山真男
ササラというのは、ご承知のように、竹の先を細かくいくつにも割ったものです。手のひらでいえばこういうふうに元のところが共通していて、そこから指が分かれて出ている。そういう型の文化をササラ型というわけであります。タコツボっていうのは文字通りそれぞれ孤立したタコツボが並列している型であります。近代日本の学問とか文化とか、あるいはいろいろな社会の組織形態というものがササラ型でなくてタコツボ型であるということが、さきほど言ったイメージの巨大な役割ということと関係してくるんじゃないかと思うわけです。
タコツボ型。日本のこの社会、文化の構造が、近年はより弊害として、作用しているように私は切実に思う。タコツボからタコツボへの移動も、不可能ではないが簡単ではない。一度入ったタコツボ(会社、業界、組織)の外では、技能・実績の評価が正しくされず、人脈もタコツボの外では通用しにくい。その結果、タコツボスペシフィックな人材となってしまい、経験値が偏ったまま、リーダーとなってしまう。対外試合の経験が著しく少ない、内向きで、組織内調整型のリーダーが、年功序列も重視されることもあり、登用されやすい。社会が安定しているときはよいが、これからの変動期には辛い。
46. 『近代日本と植民地1』p263 共著 (岩波書店)
植民地統治という行政的・領土的支配が終わったとはいえ、非西欧世界に対する政治的影響力の行使は、控えられるどころか、強められた。第二次世界大戦前のイギリスとは比較にならない規模の軍事基地網を作り出したことのひとつを見ても、「アメリカの平和」は政治的・軍事的に帝国であった。
もちろん、「アメリカの平和」では直接の領土的支配は認められない。直接統治という手段に訴えずに、現地で戦略的利益を実現するためには、現地政治エリートの操作が不可欠となる。かつてロビンソンが指摘した帝国主義における「協力者」(collaborator)のディレンマは、「アメリカの平和」につねにつきまとった。そして、植民地統治という行政的支配を否定したとはいえ、冷戦体制でも軍事力は政策の合理的手段をあると考えられ、地域紛争への軍事干渉は繰り返された。その構図はベトナム戦争敗北を受けたキッシンジャー外交のもとでいったん組み替えられる。しかし、レーガン=ブッシュ政権が地域紛争への干渉を繰り返す中で揺り戻しが起こり、周辺部における軍事的勝利が帝国の信用を支えるという構図が湾岸戦争によって復活する。経済的に「帝国主義」と呼べるかどうかをさておくとすれば、「アメリカの平和」は際立って古風な軍事帝国に他ならなかった。
第二次世界大戦による敗戦まで続いていた日本の帝国主義と植民地経営について、学者たちにより書かれた本でもある。しかし、引用した部分は、アメリカの戦後の世界統治に関しての一文になってしまった。なんと、戦後の日本の状況にぴったりと当てはまるではないか。(ちょっと、しらじらしかったかな)膨大な軍事負担に喘ぐアメリカは、すでに満身創痍である。しかし、内部から崩壊して、息絶える前に植民地の生き血を求めるだろう。つくづく、やっかいな時代だ。
45. 『キャムズ』p5 ジェフリー・ムーア (翔泳社)
ハイテク製品を市場に浸透させて行くときの最大の落とし穴は、少数のビジョナリー(進歩派)で構成される初期市場から、多数の実利主義で構成されるメインストリーム市場へと移り変わるところに、バックリと口を開けて待ち受けている。このふたつの市場のあいだに横たわる溝は、これまでもまったく問題にされていなかったが、実はハイテク分野のマーケティングを論ずる際にきわめて重要な意味合いを持っている。我々はこの溝を「キャムズ(深い溝)」と呼んでおり、ハイテク製品のマーケティングを長期的な視野で捉える際には、キャムズを越えることが最重要課題となる。つまり、キャムズを越えた者がハイテク分野で財をなし、失敗すればすべてが水の泡に帰すのだ。
製品のライフサイクルを、イノベーター、アーリーアドプター、アーリーマジョリティー、レイトマジョリティー、ラガードの5段階に分けて、それぞれの段階の間にあるクラック(割れ目)をキャズムとしている。特にアーリーアドプターからアーリーマジョリティーへの移行が困難で、キャズムを超えるには前段階でのやり方を捨てて、新しい段階へ移行するためにマーケティングなど全ての面で体制を変更して対応する必要がある。アーリーマジョリティーはメインストリーム市場であり、この段階に到達すると売上げは飛躍的に向上する。しかし、このキャズムを超えるのは容易ではなくて、注目されたベチャー企業の数々がキャズムを超えられずに敗退していった。
44. 『知っておきたい放射能の基礎知識』p204 斉藤勝裕 (サイエンス・アイ新書)
放射性ストロンチウム 自然界に存在するストロンチウムのほとんどは、Sr86(9.9%), Sr87(7.0%), Sr88(82.6%)ですが、核分裂で生じるのはSr89, Sr90です。これらはともにβ線をだします。Sr89は半減期が約50日と短いですが、Sr90は約29年と長く、危険です。
ストロンチウムは周期表で見ると、カルシウムCaと同じ2族の元素です。そのため、体内に入るとカルシウムと置き換わって骨に蓄積され、長期間にわたってβ線をだし続けるので大変に危険です。
未曾有の地震、津波による災害と原発事故から、1年と8ヶ月がたった。気を抜くと、あの原発事故のことを忘れていることがある。そして、もしかしたら、たいした被害は発生しないのではないかという願望がかなうような気がしてくる。しかし、現実はそんなに甘くないはずだ。一部の人を除いて、あまりにも、世間は放射能汚染の脅威を過小評価しているようにしか思えない。大手マスコミからの情報だけを受け身で得ているだけでは、この先、酷い目に会ってしまう。生き残りたいなら、情報は自分から求め、自分で判断するしかない。
43. 『イスラエル』p212 臼杵陽 (岩波新書)
最初に挙げなくてはならない深刻な分裂は、イスラエルを世俗的なユダヤ民族国家として維持し続けるのか、それともユダヤ教国家にすべきなのかという、政教分離の原則にかかわる問題をめぐる対立である。第二の分裂は、ユダヤ人の出身地域による文化的差異に基づくアシュケナジームとミズラヒーム、あるいはロシア系ユダヤ人やエチオピア系ユダヤ人といった新たな移民集団の登場に伴うエスニックなレベルでの対立である。さらにもっとも深刻な分裂は、同じイスラエル国籍といってもユダヤ市民とアラブ市民の間の民族的な対立である。
日本でイスラエルというとユダヤ人の国ということになっている。そして、イスラエルに旅したときに出会ったユダヤのおばあさんの教えがどうのうこうのという本が流行ったりしている。ユダヤ人の教えなんちゃらというタイトルがすでに噴飯物であるが、なんだか妙に有り難がって、無批判に受けいれる人が多い。しかも、お節介なことに、どや顔で、人に勧めたりするから始末が悪い。本人は教養をあるところを見せたいのかもしれないが、本当は分っていないことをさらけ出している。で、こちらがチクリとやると、とたん不機嫌になって、素直でない人間は、将来成長しないとか、言ってくる。なぜか、社長という名のつく人に多いような気がする。反省 (_o_)
引用部にもあるように、 イスラエルトという国は、ヨーロッパ系、中東系、ロシア系、エチオピア系とさまざまな出自をもつ人達を「ユダヤ民族」として認定している国である。マイノリティであるが、アラブ人の国民もいる。シオニズムを利用して、欧米の支配者層が、中東へのくびきとして、埋め込んだ人工民族国家だ。
42. 『社長さん!銀行員の言うことをハイハイ聞いていたらあなたの会社は潰されますよ』p118 篠崎啓嗣 (すばる舎リンケージ)
いろんな過去の事例や、そういう目にあった人から、直接お話を聞くと、金融機関というものは、本当に非情らしい。まぁ、あちらも慈善事業でなくて、ビジネスなので、ドライに損得を勘定するのは当たり前といえば、当たり前だ。ただ、中には、詐欺まがいとまで行かなくても、かなりそれに近いようなこと、倫理的にかなり問題あるケースも見聞する。法律および商業慣行は、金融機関に有利にできている。特に中小零細企業に対して、金融機関が損失を被りにくい仕組みが出来上がっている。
我々のような、弱小な存在は、情報の非対称性を少しでも緩和し、いざというときにサバイバルするために、知的武装を日頃から、心がけて行かなければならないと思う。知ることは、力です。
41. 『ヘーゲル『精神現象学』入門』p52 長谷川宏 (講談社選書)
個々の意識にあらわる個々の存在や事態や真理が、そのまま絶対者や絶対の真理になることはありえない。個々の存在や事態や真理は、一定の限界内の、あくまで相対的な、存在であり、事態であり、真理である。
読書とは創造活動であるということが実感として理解できるようになったのは、40を過ぎてからだ。それは、読書していると今まで蓄積してきた知識や経験がシンクロして、創造(想像)の旅が始まるからだ。
しかし、自分の力量を越えた書物に対峙する場合、創造の翼を広げても、飛び立つ事ができず、闇雲に翼を動かし、地上でのたうち回ることになってしまう。
引用部分も字面は読めるが、なんど読み返しても、3年前の自分も今の自分も、よくわからない。
難解と言われる『精神現象学』の入門書、解説書として、本書はかなり分かり易くなっているのではないかと思うが、この本を読んだ3年前、そして、3年間曲がりなりにも研鑽を重ねた今の自分でも、太刀打ちできなかった。
いつかは、『精神現象学』そのものに取り組みたいと思うが、まだまだ道のりは長いなぁ、でも、諦めずに粘って行こう!
精神現象学とは直接関係ないが本書を読んで、ギリシャ、ローマ、キリストと連なる西洋文明なかで、多神教から一神教へ向う流れが、ヨーロッパ社会の基盤に大きく影響を与えているという事は理解できた。
40. 『闘うプログラマー ビル・ゲイツの野望を担った男達』p44 G・パスカル・ザカリー(日経BP)
批判は厳しいが、プログラマーを尊敬していて、どのプロジェクトでも、プログラマーを責任者にし、管理とプログラミングの両方をまかせる。両方をまかされるプログラマーにはストレスがたまるが、プログラミング経験がないか、あっても時代遅れの知識しかない管理専門の人間には、指揮をとらせたくなかった。経営管理のプロにソフトウェア・チームやソフトウェア会社の管理を任せると、悲惨な結果になる。有望なソフトウェアとクズを見極めることも、スケジュールや製品設計を評価することもできない。プロが経営する企業では、管理者はたいてい、プログラマーを理解も支配もできず、現場の人間への不信感をつのらせてることになる。
一般的には、1995年のWindows95のリリースが、マクロソフトが巨大企業へ導いたとされているが、私は、MS-DOSの拡張版のWindows95よりも、WindowsNTというOSをマイクロソフトが作り上げたことの方が、マクロソフト的には重要な出来事だったと思う。この本は、マイクロソフトの社運を賭けた次世代OS(WindowsNT)の開発物語であり、そのためにDECから引き抜いたディビット・カトラーと彼のチームの闘いの記録である。
カトラーはIBMキラーと言われたDECのVAX用OS VMSを開発し、DEC内で高く評価された。しかし、その傲慢な性格のため、DEC内では浮いた存在となってしまう。MS-DOSのままでは将来は必ず行き詰まると考えていたビル・ゲイツは、次世代OSの独自開発を進めていて、その責任者として、カトラーをヘッドハンティングしてきた。次世代OSの名前、Windows New Technology = WNTは、カトラーがDEC時代に開発したVMSを一文字スライドさせたものだ。(2001年宇宙の旅のコンピュータHALがIBMを一文字スライドさせたのと同じ)
プログラマーならば、誰でもプロジェクト遂行の困難さ、大変さを身にしみて知っているので、新しいOSの開発がいかにビックプロジェクトで困難を極める仕事かを本書を読んで共感できる。すぐに登場人物に感情移入して、面白く読める。プログラマーじゃないひとでも、何か組織で協力して作り上げた経験のあるひとなら、その人間ドラマを楽しめるだろう。
さて、中心人物のカトラーはやっぱり紳士とはほど遠い存在である。すぐに怒るし、無理強いはするし、能力の低い部下には冷たい人間である。しかし、自分(達)のOSを作り上げるんだ、世間に残る仕事をするんだという意志は強い。平和主義だけでは、偉大なOSは作れない。闘える人間だけが偉大な仕事を成し遂げるのだ。
発売デュー当時、1週間に一度リブートしなければ動作が不安定になったWindowsNTのことは随分バカにしたけど、本書を読むと、WindowsNTの開発は確かに凄い仕事だったと思う。この開発のおかげで、サーバにもマイクロソフトのOSが使われるようになり、クライアントサイドもWin95からWin2000,XPへと上手くステップアップさせることが出来たのだから、マイクロソフトへの功績は計り知れないだろう。